児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

考えぬかれた集団の在り方:「方舟にのって」

Vol.99 更新:2024年10月7日

▼1980年に雑誌や国会でセンセーショナルに取りあげられた、いわゆるイエスの方舟事件について、正当な評価を表明していたのは、管見の限りでは「サンデー毎日」と芹沢俊介だけだった。当時の多くのマスメディアは、若い女性たちが家出をして千石剛賢の主宰するイエスの方舟へ身を寄せていたことに対し、ハーレムという、根拠のない記事を垂れ流し、その結果、衆議院予算委員会においてまでとりあげられたが、千石が不起訴処分とされてからは急速に報道されなくなっていった。

▼方舟のある会員は、かつての芹沢によるインタビュー(『父とは誰か、母とは誰か』所収)の中で、「聖書の理解ということで、ぶつかるときなんかありますか」という問いに対し、「それは、もうしょっちゅうです」と答えていた。また、「それぞれの主体性が入れられているところが方舟なんですね」「発言権は同じなんです」と語る別の会員の話を受けて、千石は、「一種の合議制みたいなもん」と説明しつつ、他方で「職制ちゅうようなものも、店〔後述する「シオンの娘」・引用者註〕の仕事に限ってちょっとずつ利用」するが、「仕事がすんだらそれはスッと解消」し、「集会になるとぜんぶなくなっちゃう」と述べていた。

▼そうとう考えぬかれた集団の在り方だと思う。だからこそ、イエスの方舟は、「事件」から数えても40数年間にわたって持続することができた。ドキュメンタリー映画「方舟にのって」(佐井大紀監督)によると、千石剛賢を指す言葉であった「おっちゃん」は、剛賢の死後、妻の千石まさ子を指す言葉になった。まさ子は、「私たちは聖書の勉強をしている…宗教の勉強はしていません。」と断言する。そして、「おっちゃん」とは、方舟会員の一人ひとりを表すという考えを開陳している。ここまで高度に練り上げられていると、それは究極の集団の在り方であるとともに、集団が閉じられたときに陥りがちな教祖信仰を自覚的に解体している姿というべきだろう。

▼また、1980年に福岡市中洲にオープンしたスナック(という看板だが、広いフロアを持つ、方舟会員によるショーを売り物にするクラブ)「シオンの娘」は、老朽化によりいったん閉店したが、新型コロナパンデミックをはさんで2023年に古賀市に移転したという。映画の終盤あたりで高齢のまさ子がソプラノで朗々と歌い上げる場面を観ると、たしかにこの店が社会の中で十分な商品価値を持って流通しているのだなと納得させられる。このような社会への通路が、イエスの方舟を持続させた、もう一つの根拠なのだろう。

▼千石まさ子の言う「聖書の勉強」は、もちろんアカデミズムのような退屈なものではなく、故・剛賢が語っていた内容を継承しているのであれば、かなり深い理解に至っているのではないか。剛賢は、原理運動(統一教会)の「アダムがエバを拒絶していたら原罪は起きなかった」という理解に批判を加えていた(前掲書)。私が知らないだけかもしれないが、既成宗教の誰もが、統一教会に対するこのような根柢的批判を未だ提出していない。