児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

冷戦へ向かう時代のパワーゲーム:「オッペンハイマー」

Vol.94 更新:2024年4月30日

▼ハリウッドにとってのトラウマともいうべきマッカーシズム(赤狩り)下における転向の弥縫と、これもハリウッドのお家芸であるシーソーのようなパワーゲーム。映画「オッペンハイマー」(クリストファー・ノーラン監督)について一口でまとめるなら、こうなるだろう。だが、箸も棒にもかからないほどの悪い出来ではない。それどころか、ハリウッド作品をあまり見ない私のような観客でも安心して愉しめるほどの、既視感を抱きうるつくりになっている。ましてや、ハリウッド映画以外はほとんど見たことがないであろうアメリカの民衆には、定番のつくりの作品として歓迎されたに違いない。アカデミー賞の受賞も、むべなるかなだ。

▼何にしても、日本社会の一部で言われているような「広島・長崎の惨状が省かれている」「オッペンハイマーとアインシュタインの苦悩が描かれている」といった感想が、全くの筋違いであることだけは、すぐにわかる。もし惨状と言いたいのなら旧アメリカ・コムニストの惨状であり、また苦悩と言いたいなら政治ゲーム下での苦悩であって、これら2つを組み合わせることさえ出来れば、エンターテインメントとしては十分なのだ。

▼映画は、カラーパートの「1 FISSION」(核分裂)とモノクロパートの「2 FUSION」(核融合)に分かれる。前者では、実験の下手なオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)のエピソードから、労組結成、共産党員集会でのジーン(フローレンス・ビュー)との出会い、元活動家のキティ(エミリー・ブラント)との結婚を経て、左派からの転向、マンハッタン計画への参加、トリニティ実験の成功と賞賛が描かれる。後者では、ソ連のスパイ容疑でオッペンハイマーが追及されるクローズド・ヒアリングの様子が中心になる――。

▼前者はマッカーシズム下での転向に相当するが凡庸で、ただ自殺することになるジーンだけが暗い輝きを見せている。後者はパワーゲームに相当する部分で、それなりにスリリングだが、よく目にする法廷劇(といっても公開の法廷よりも質の悪い舞台として設定されている)で、ただキティの吐き捨てるような言葉だけが異彩を放っている。

▼ところで、現在のアメリカ左派はあまりにも微弱だから、反軍事主義、女性や同性愛者の権利、エコロジーなどのゆるい運動を行なうしかなく、また権力そのものには近寄りがたいので、権力と結びついている何ものかに攻撃を仕掛けたくなるという話を、ある翻訳書(『「知」の欺瞞』)で読んだことがある。そして、ある程度近寄りうる標的としては、科学が格好の材料になるというのだ。そのあたりも計算ずくで制作された映画なのだろう。ちなみに、日本のソフトな左派も、そこへ近づいている。

▼この映画そのものに戻れば、IMAXのためなのか、やたら大仰な光と音が目障り・耳障りだった。また、アインシュタインとマンハッタン計画との関係は、流布されている史実とは異なって描かれていたようだが、そこは言い訳めいていて不要だった気がする。