トラウマと愛国:「ゴジラ−1.0」
Vol.89 更新:2023年11月25日
▼ゴジラファンなのでどうしても点が辛くなるが、誉めるにはやや躊躇してしまう。「ゴジラ?1.0」(山崎貴監督)のことだ。もっとも、私などが批判しても観客動員数に影響を及ぼすはずもなかろうから、感じたままを以下に記してみる。
▼まず、太平洋戦争の末期、特攻少尉の敷島(神木隆之介)が大戸島へ不時着する。しかし、ベテラン整備兵の橘が調べても機体に故障はみつからない。敷島は故障を装って突入を避けたのだろうが、私の理解力に難があるのか、その理由が、よくわからない。親から「死ぬな」と言われていたというだけでは、いまひとつ説得力に欠ける。次に、不時着した大戸島はゴジラに襲われる。敷島は、特攻機に装備された機関砲でゴジラを撃つよう橘から頼まれるが、撃とうとしても撃てなかった。ここの理由も、よくわからない。恐怖心だけでは、やはり納得とまではいかない。
▼敗戦後、復員した敷島は、焼け跡のバラックで暮らすが、毎晩のように悪夢にうなされる。つまり、戦争トラウマの症状だ。だが、上述のような背景がある以上、トラウマ因としては、ゴジラによる襲撃自体よりも、特攻を果たせず、かつゴジラを銃撃できなかったことに対する自責に、力点が置かれていることになる。そうなると、残念ながら、いかにも倫理主義的なトラウマ解釈といわざるをえない。
▼もう一つ記してみる。銀座を襲うゴジラに対し、アメリカも日本政府も、接収艦を回す以外は何ら動こうとしない。そこで起ちあがったのが、海軍所属だった元兵士と元技術士官、そして駆逐艦「雪風」の元艦長たちだった。抗米救国とでもいうべき行動だ。このような形の愛国主義には、民衆が登場するようで登場しない。登場するのは逃げ惑う住民と正論を吐く女性だけだ。漁船団のシーンにも漁師は背景にしか登場しないし、漁船団を率い船舶用拡声器を握る若い乗組員の姿にしても、それ以前に「俺だって国を守りたい」と叫ぶ伏線があるため、興ざめというしかない。つまり、愛国主義は倫理主義のトラウマを糊塗する範囲でしか成立していないのに、そのまま空疎な膨張を続けているということだ。
▼もちろん、良い描写もいくつかある。とりわけ、技術者へのリスペクトが描かれているところには好感が持てる。フロンガスを用いた作戦に関し学者も馬鹿にならないなと語られるシーン、東洋バルーンという会社の技術系社員たちが戦闘を見届けると言いつつ現場へ赴くシーンなどだ。それらと関連するが、整備兵の役割が重視されているし、また重巡「高雄」や局地戦闘機「震電」といったレジェントも、整備技術なしで動くわけではない。
▼そういった良さはありながらも、結末は、誰もが推測可能な予定調和に収まってしまう。そのあたりも不満が残るところだ。なお、重箱の隅をつつくようだが、「〜を鑑み」という科白は、正しくは「〜に鑑み」だと思う。たったそれだけでも、脚本が雑だなという印象を与えてしまう。