文体を翻案した科白:「月」
Vol.88 更新:2023年10月24日
▼2016年の相模原殺傷事件を扱った辺見庸の小説『月』の文体は、およそ心地良いとはいえないリズムと不協和音に満ちていた。正義の高みから悪を断罪するというステレオタイプを拒否しようとすれば、このような文体を採用するしかなかったのだろう。この文体を映像に翻案するには科白に最小限の解釈を嵌め込むしかないが、嵌め込まれた解釈は、正義の高みとは反対の、低い場所からの声でなければならない。
▼こういう難しい翻案を経つつ、独立した作品として完成させた映画が、「月」(石井裕也監督)だ。書けなくなった作家の堂島洋子(宮沢りえ)と、小説家を目指しながら才能が無いと悩む陽子(二階堂ふみ)は、絵を描くことの好きな青年「さと君」(磯村勇斗)とともに、森の中に閉ざされた障害者施設で働いている。施設では虐待とその隠蔽が常態化している。このような状況に疑問を抱き、「きーちゃん」という入所者の部屋に自ら描いた月を飾っていた「さと君」は、反転して話し言葉のない障害者を意味のない存在として位置づけるようになり、大殺害へと向かう――。
▼では、原作を翻案するため嵌め込まざるを得なかった解釈とは何か。原作にある「きーちゃん」のリズムを、映画作品中に登場する人たちの思考へと置き換えることにほかならない。具体的には、絵の得意な「さと君」と、洋子の夫で人形アニメーション作家の昌平が交換可能な人物として設定されている。つまり、「さと君」=悪、昌平=善ではない。悪であるはずの「さと君」から昌平への批判と、善であるはずの昌平から「さと君」への批判が等価に置かれているということだ。他にもある。青年期のヒトラーが画家を目指していたという有名なエピソードや、洋子と昌平の人工妊娠中絶をめぐる葛藤などがそれだ。
▼まだある。被災地に行ったよと、綺麗ごとを小説に書く。しかし、悪臭など都合の悪い部分は、編集者の方針に従って隠してしまう。そこに、「それで何?きーちゃんの心の声を小説にする?賞がもらえたらラッキーだよね。」「あなたは無傷で手ぶらで善の側に立つのはズルい。」と、容赦のない批判が叩きつけられる。
▼だが、批判を叩きつける側も、身近な「善」の体現者だと仮構した人物へと攻撃の鉾を向けるよりも前に、自らが何倍も傷ついている。たとえば陽子がそうだ。陽子を演じた二階堂は別格としても、さと君を演じた磯村の語りと表情は「ビリーバーズ」とはずいぶん異なっていて驚いたし、さと君の恋人役で聴覚障碍者の長井恵里(「ケイコ目を澄ませて」に出ていた)も新鮮だった。
▼なお、この映画は、ノルウェー・ウトヤ島の連続テロ事件についても言及している。私は「ウトヤ島、7月22日」という映画に関し、誰からも非難されないようにつくられていて嫌な感じがすると述べたことがあるが、映画「月」は、そういった嫌な感じを意図的に超えようとした作品であることは間違いない。