児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

新興ブルジョアジー家族における母:「君たちはどう生きるか」

Vol.86 更新:2023年8月26日

▼好意を込めたつもりで書くのだが、スタジオジブリ制作のアニメーション映画には、字義どおりの意味で兵器もしくは戦争マニアとでもいうべき作品が、含まれていると思う。このことは、好戦−反戦の対立的枠組みとは関係がない。たとえば、「紅の豚」は、私も好きな作品の一つだが、ファッショ−反ファッショの枠組みは二義的で、前面に出ているのはエンゲルス流の戦争マニアとでもいうべき感性のような気がする。

▼戦闘シーンこそないが、話題作「君たちはどう生きるか」(宮崎駿監督)もそうだ。戦時下に、少年マサトは、火災により実母=ヒサコを喪う。父は、ヒサコの妹=ナツコと再婚する。マサトが疎開したナツコの実家の屋敷横には、青鷺のいる洋館があった。気持ちの上で義母を受け入れられないまま、マサトは、吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』を読んで洋館の中へ入り込み、ペリカンの大群に襲われる。そこは「下の世界」だった。下の世界で出会った少女=ヒミとともに、マサトは現実世界へ脱出する。ヒミは実母=ヒサコの少女時代の姿だった――。

▼さて、吉野の『君たちは……』については、すでに村瀬学による完膚なきまでの批判がある。一例を挙げれば、いじめる生徒への膺懲が、父親が予備役の大佐だという権威を背景に行われる姿を、あたかも正義漢でもあるかのように描いているが、もちろんそんな権威主義による見せかけの解決が真の意味でいじめの解決であるわけがない。

▼他方、映画「君たちは……」においては、疎開のため転校を余儀なくされたマサト自身によって半ば演出されたいじめ被害を見て、マサトの父は、新興軍需産業ブルジョアジーの財力を背景に、校長を買収することで解決をはかる。ただし、吉野の小説とは異なって、そのような財力による解決法を、すべての観客が侮蔑しうるような形で描いている。もっとも、新興ブルジョアジーという階級そのものは温存させざるをえない。そうしないと、映画作品の――ひいては宮崎駿自身の出自の――基盤が揺るぎかねないからだ。

▼ところで、映画の主題は、実母に対する憧憬という点にあるようだ。かつては夫が死亡した場合、遺された妻は、夫の弟と再婚することがあった。その逆、つまり妻が何らかの理由で死亡した場合、生き遺った夫が亡妻の妹と再婚することが、実際にとの程度あったのかについては、寡聞にして知らない。だが。もしそれが現実にあり、しかも死亡した妻とのあいだにマサトのような子どもがいたとするなら、母子関係はいったいどうなるのだろうか。

▼たとえ、これほど極端なシチュエーションではなくとも、つまり実際には実母が生存している場合であっても、母親との対立および和解の物語は、新興ブルジョアジーの家族の中に、多かれ少なかれ苦渋を伴って出現するに違いない。だが、和解へと至る道は困難を極めるだろう。理想の母親像は無限大にまで拡大し、現実の母親は御節介を焼く姿でしか登場しないからだ。このような特殊な事情は、なかなか普遍性を獲得しにくい主題だというしかない。