児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

過去の中に見いだされる現在:「親愛なる同志たちへ」

Vol.72 更新:2022年4月21日

▼現在のはずでも過去への退行しか見いだせないこともあれば、過去の中に現在を見いだすこともある。モノクロでスタンダードサイズの映画「親愛なる同志たちへ」(アンドレイ・コンチャロフスキー監督)は、間違いなく後者といっていいだろう。

▼スターリン時代だけでなく、フルシチョフ時代のソ連も、民衆に隠された暗部を持っていた。ノボチェルカッスク事件は、その1つだ。1962年6月1日、共産党員で市政委員の女性リューダ(ユリア・ビソツカヤ)は、相つぐ商品値上げの中で食料品店に押し掛ける民衆をよそに、店の奥で知り合いの店員から缶詰や煙草を受け取ったあと、委員会へ出席する。そのとき、国営機関車工場で賃金カットに抗議する大規模ストライキが発生し、労働者たちは工場の管理棟を襲撃する。フルシチョフの命令で副首相ミコヤンら上層部が、現地へ派遣される。上層部を前にした会議の席上、リューダは、スト参加者を全員逮捕すべきだと主張、軍司令官は反対するが、ミコヤンらは兵士に武器を携行するよう命じた――。

▼映画に描かれた労働者たちは、レーニンの肖像を掲げている。一方、スターリンの時代はよかったと、リューダがつぶやくシーンがある。おそらく、どちらも事実の描写なのだろう。逆に言えば、過去の「労働者国家」の幻影の中にしか、行動の指針を見つけられないということだ。一種のノスタルジアだが、リューダのノスタルジアは、「タワーリシチ!」(同志)と叫びながら駆け上がった先にKGBの狙撃手を目撃したことにより、揺らいでいく。狙撃手は、決起した労働者を射殺したのだ。リューダは、彼女に反発して工場へ行った娘を探すために、駆けずりまわる。党員でも市政委員でもなく、娘の母になったとき、スターリンにもフルシチョフにも頼る必要のない家族が取り戻される。

▼閑話休題。ノボチェルカッスク事件の前後に、ミコヤンは来日し、大相撲を観戦しているはずだ。私の子どもの頃に見たテレビ中継の記憶だけで書いているから、間違いなら訂正するが、玉の海梅吉だったか、とにかく解説者が、観客の中にいるミコヤンの名前を口にしていたと思う。大相撲とソ連という取り合わせが興味深く、印象に残っている。(柔道とプーチンの取り合わせと同じようなものかもしれない。)あれは、東西陣営のデタント(緊張緩和)といわれる姿の、演出の一つだったのだろうか。

▼スターリン批判を行ったフルシチョフの失脚に続き、側近ミコヤンも失脚した。ブレジネフから何人かの大統領を経て、ゴルバチョフがソ連の幕を下ろす。そして、エリツィン以降、旧ソ連・東欧諸国は、周知のとおり、次々と民族主義へ転じた。他方、プーチンはボルシェビキの歴史を批判し、新ユーラシア主義(ネットワーク型帝国主義とも呼ぶらしいが)という宗教的民族主義を前面に押し出している。両者ともが過去への退行だ。生起する民族主義戦争の中で、ロシア兵士の母の委員会だけが、わずかに未来を照らしている。その萌芽は、この映画の母親リューダにあった。過去の中に見いだされる現在にほかならない。