児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

ダブルワークのあいだの生死:「由宇子の天秤」

Vol.68 更新:2021年11月23日

▼「由宇子の天秤」(春本雄二郎監督)の木下由宇子(瀧内公美)は、いわゆるダブルワークをしている。primary jobはおそらくフリーランスのドキュメンタリー・ディレクターで、second jobは昔に父親(光石研)が開いた木下塾の講師だ。それぞれの仕事は並列して進行しているだけだったが、いつの間にか交錯しはじめる。すると、一方の仕事が扱っていたはずの、報道によって死者を生き返らせるという理念は、他方の仕事の中で図らずも生起した、生者が向かう死への過程と、表裏の関係を形成してしまう。こういう世界を描き出すことができたのは、まず何よりも脚本の力だろう。

▼ドキュメンタリー・ディレクターとしての由宇子は、地方都市で起きた女子高生いじめ自殺事件の取材を続けていた。いじめの隠ぺいのために学校側は亡くなった生徒と当時の教師が男女の関係にあったと主張し、その噂を立てられた教師もまた無実を主張する遺書を残して自殺した。由宇子が取材を続ける遺族はメディアに殺されたようなものだと述べるが、プロデューサーはその部分をカットしろという――。ここまでなら、単なるテレビ業界における報道姿勢の歪みを指摘しているに過ぎない(もちろんそれ自体は大問題だが)。

▼かたや塾講師としての由宇子は、かつて自らもそこで学んだ経験を持つが、彼女の父親でもある塾長が、塾生の萌(河合優実)を妊娠させてしまったことを知る。由宇子は父の過ちを非難しながらも口外せず、父子家庭で暮らす萌の生活をサポートする。そういう中で、萌は由宇子に心を開きかけるが、萌が体を売っていたという噂を由宇子は耳にする。由宇子は、妊娠させたのは誰なのかと萌を詰問したため、彼女は絶望する――。これだけなら、やはり通俗小説の主題に過ぎない(もちろんそれが現実の事件なら大問題だが)。

▼しかし、両者が交わったとき、それぞれの領域での生死は、一方が他方の写像になり、他方が一方の写像になる。脚本の力とは、こういうストーリー構成を指している。

▼さて、映画の場面展開と相応するように、由宇子の動作は速い。ところが、「きびきび」とか「さっそう」とかいった副詞は似つかわしくなく、むしろ重苦しいとさえいえる。そこもまた、脚本に相応していて感心させられるところだ。いわゆるダブルワークの一つが、キャリアアップをひたすら目指すテレビの仕事だとするなら、ほんとうは楽しいわけがない。そして、他の一つが、過去に戻れるから多少は楽しいはずの塾の仕事であっても、テレビと同じようなスピードを持ち込むなら、楽しいわけがない。だから、由宇子は、ほとんど笑顔を見せないし、はしゃいでいる数少ないシーンでも、心底から楽しそうには見えない。

▼付け加えるなら、故意にそうしたのかどうか知らないが手ぶれの場面があり、音響のせいか科白がやや聞き取りづらい箇所がある。また、わざと照明を落としているのかどうか知らないが、照度不足で不鮮明に映る場面が混在している。それらのすべてが、いわく言い難い効果をもたらしていた。