児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

こうだったらいいなあと思わせる高校生の姿:「かそけきサンカヨウ」

Vol.67 更新:2021年10月25日

▼陽(志田彩良)が未だ幼少期の頃、家を出た実母は、いつのまにか再婚して子どもがいる。実母は画家で、父(井浦新)は音楽家だ。その父は、陽が高校生になったとき、子連れの翻訳家と再婚する。陽の同級生=陸(鈴鹿央士)は心臓病のためバスケットボール部を辞め、陽と同じ美術部に入る。比較的裕福な住宅街に暮らす陽とその同級生たちが集まる喫茶店「赤い風船」でアルバイトをする沙樹は、同じ高校の仲間だが経済的に貧しいらしく、古びたアパートに母と暮らしている――。

▼このように書きつらねてくるだけで恥ずかしくなるほど、ベタなエピソードの連続だから、通常なら映画になるはずもない。なっても見ていられないだろう。しかし、にもかかわらず観客は画面に釘づけになってしまう。そういう作品が、「かそけきサンカヨウ」(今泉力哉監督)だ。

▼なぜなのか。実母が家を出た理由を、父が陽に説明するシーンがある。窪美澄の原作がそのまま使われていると思うから、やや長くなるが引用してみる。《「女の人が仕事をすることとか、ぼくが家事をあんまり手伝わなかったこととか、そういうことを、ものすごくまじめに、すっと佐千代さん〔元妻=陽の実母を父はこう呼ぶ・引用者註〕と話し続けていた。若いぼくたちはものすごくまじめに」「でも、そこで、決定的に、ぼくと佐千代さんとの間で何かが損なわれたんだ。ほんとうはそんなことを突き詰めないで、ぼんやりとさせたまま、二人の関係を、家族を続けていけばよかったのかもしれない。」》これは反語ではなく、ほんとうにそうすべきだった、ぼんやりとさせたままでいることが若いときにも必要だったと、確信している言葉だと思う。

▼陽や陸に引き寄せて言えば、実母が自分を捨てたのではないかというトラウマの物語や、心臓病を克服するという刻苦勉励物語は、三流のテレビドラマの中にしかなく、現実の心の動きは、押し殺された声調と動作に包み隠されているということだ。包み隠された心の動きを見ようとする観客は、だからスクリーンから目を離せなくなる。

▼さらに敷衍するなら、人生には、そうあるはずだと思っているようには展開せず、また逆に、そうはならないはずと考えてもそうなってしまうことが起こる。そのたびに、それらを噛みしめ織り込んで歩むことは、普通は齢を重ねてからでなければできない。しかし、青春時代からそれらを織り込んでしまうような資質を抱えた人たちがいる。そんな高校生を志田彩良らは演じているが、それは口でいいうるほどには易しくなかったはずだ。

▼一方で、この映画には、三角関係というにはあまりにも微笑ましい陽と陸と沙樹との関係も描かれている。そこだけが、ずっと包み隠されていた心の動きを一瞬だけ解放させていて、観る者はどこかほっとした気持ちになる。こうだったらいいなあと思わせる高校生の姿が、ここでもうまく演じられている。