児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

伝記映画のバリエーションの一つだが:「ミス・マルクス」

Vol.65 更新:2021年9月25日

▼J・アタリ『世界精神マルクス』(的場昭弘訳)という本は、マルクスの末娘エリノア(エレナ―)について、おおよそ次のように記している。エレナ―は、社会主義を広める手段として理解していた演劇にいつも情熱的であった。イプセンをノルウェー語から、『ボヴァリー夫人』をフランス語から翻訳した。また、彼女は、ドイツ語版第三版から『資本論』の新しい英訳を、彼女と暮らしていたエドワード・エイヴェリングらの助けを借りて行った。エンゲルスがそれを読み直した。いつも鬱であった彼女は、エイヴェリングと法律上の妻を離婚させることに失敗し、やがて自殺未遂をする。

▼父カール・マルクスが、幼くして亡くなった息子エドガーの生き写しを彼女の中に見ていたために甘やかされてきた、かつての小さな「トゥッシー」(エリノアの綽名)は、最終的には自殺を実行に移し、今度は失敗することはなかった。エイヴェリングは、エレナ―の死後五か月で亡くなる(病死)――。

▼そのエリノア・マルクスの生涯を描いた映画が、「ミス・マルクス」(スザンナ・ニッキャレッリ監督)だ。ダウンタウン・ボーイズのパンク・ロックを挿入したり、衣装の色彩を鮮やかにしたりといった、歴史映画の枠を超えようとする意図は随所に垣間見られるが、にもかかわらず歴史映画の範囲におけるバリエーションの一つだと言ってよい。つまり、とりたてて斬新な解釈があるわけではないのだが、それでも観客を惹きつけるのは、エリノアを演じるロモーラ・ガライの演技に拠っている。政治活動の関係におけるエリノアと、エイヴェリングとの関係におけるエリノアを、対照的にではなく等価に演じているからだ。

▼観客は、エリノアの生涯を、労働者解放と女性解放とのあいだの矛盾ゆえの自死と解釈したがるかもしれないし、事実、監督(兼脚本)もそのように構成しているようにみえる。しかし、そういうありきたりの解釈を、意図してかどうかはわからないが、微妙に超えているのがロモーラ・ガライの演技だと思う。このとき、映画は歴史映画のバリエーションをも、同時に少しだけ超えることになった。

▼ロモーラは、「未来を花束にして」で、アリス・ホートンという人の役を演じていたという。記憶が曖昧で情けない限りだが、たぶんサフラジェットの活動家であるモード・ワッツが洗濯工場から取り戻した少女を、家で預かる役だったように思う。まったくのあてずっぽうでいえば、この映画での体験が、エリノアとしての演技を豊かにしたのではないか。

▼蛇足だが、ロモーラ演じるエリノアの横顔は、先入観のせいか、都筑忠七『エリノア・マルクス』の口絵にあるエリノアの写真とよく似ている。また、同じくその本の口絵写真には、少女時代に父マルクスやエンゲルスと遊んだ「告白ゲーム」が記されていて、大好きな格言やモットーはgo a head(都筑訳では「おやりなさい」、映画の字幕ではたしか「前へ進め」)だった。基本的には、両親から十分な情愛を注がれていた少女だったのだろう。