児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

意味の押しつけがない映画:「すずしい木陰」

Vol.59 更新:2020年11月9日

▼初めから終わりまでハンモックの上で女性が横になっているだけ、ということで話題になった映画が、「すずしい木陰」(守屋文雄監督)だ。実際にハンモックを使ったことがある人ならおわかりだろうが、あれはそんなに快適なものではない。というよりも、まったく不安定で落ち着かない。あの上で眠れるようになるには、かなりの慣れが必要だ。

▼映画の中の女性(柳英里紗)は、少なくとも観客が感じる限りでは、快適そうにみえる。ということは、そうとうハンモックに慣れているのか。ほんとうは苦痛なのだが、じっとしているうちに浅くても眠りに落ちていくのか。それとも、眠るどころではないが、横たわっている役だからそうしているのか。一つだけはっきりしているのは、観客が抱く快適そうな感覚とハンモックに横たわる女性の身体感覚は、必ずしも一致していないということだ。

▼同じことは、周囲の風景についても言える。ハンモックに横たわる女性の周囲は、2つの風景から構成されている。1つは視覚に入る木々や草(また、間違っていたら訂正するが、眼に飛び込んでくる虫らしきものと蚊取り線香の煙らしきもの)だ。木々や草や煙はとりたてて揺れていないから、さわやかな風が吹いているわけではないらしい。おそらく蚊もいる。女性の服装からいって季節は夏だから、さわやかどころか、たいそう暑苦しいのではないか。しかし、少なくとも観客の眼には暑苦しくは映らない。ここでも観る者と被写体とのあいだには、感覚の不一致が生じているようだ。

▼周囲の風景には、もう1つある。聴覚に入り込む鳥と蝉の鳴き声(および工場から発生していると思われる物音)だ。これらもさわやかとはいえず、草いきれに工場の音が重なると、雑草がセイタカアワダチソウでないのが不思議なくらいだ。つまり、視覚のみならず聴覚においても、映像と聴衆の感覚とのあいだに不一致が生じている。

▼ところで、新型コロナ状況のせいか、劇場に観客は少なかったが、約1時間半の上映中、途中で席を立つ人は誰もいなかった。映像と聴衆の感覚とのあいだに不一致が生じているにもかかわらず、である。では、これが美術館の展示室だったらどうだろうか。たぶん途中で次の展示を観に移動するだろう。少なくとも私ならそうする。美術館の場合、この手の作品には、往々にして押しつけがましさがあるからだ。なのに、この映画が上映されている劇場では、席を立つ人はいない。少なくとも私が観たときはそうだった。どうしてなのか。押しつけがましさがないからだ。

▼同じ守屋文雄監督による「まんが島」にも、雑草と煙が描かれていた。(もっとも、他には虫ではなく爬虫類――蛇や守屋ならぬヤモリ――だったが。)そして、オーバーアクション気味の演技にもかかわらず、押しつけがましさがなかった。つまり、やはり意味の押しつけがなかった。こうして確保された観客の自由度を無限に広げていくと、「何もしないこと」の価値へと行きつく。それが「すずしい木陰」だった。