児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

性格設定の微妙な境界:「マザー」

Vol.58 更新:2020年10月5日

▼2014年に惹起された川口市祖父母殺害事件の地裁判決前日、毎日新聞は「居所不明児、無縁の年月」と題する記事を朝刊に掲載した。祖父母を殺害した少年は居所不明児(居所不明児童)として学ぶ機会を奪われ、暴力やネグレクトなどの虐待を受けていたこと。離婚した母親はホストクラブに通い続け、元ホストと再婚したこと。元ホストの義父に収入があるときは母親と3人でラブホテルに宿泊し、ないときは野宿をしていたこと。そして、事件後、精神科医は「虐待する母親の言うとおりにするしかない『学習性無力感』の状態」にあったと鑑定したこと等を、この記事は報じていた。

▼記事を書いた山寺香記者は、後に『誰もボクを見ていない』を上梓し、事件の細部を明らかにした。この本を原案としてつくられた映画が、「マザー」(大森立嗣監督)だ。原案とまったく同じというわけではないが、ある程度までは原案に沿った脚本だと思う。たとえば、山寺の本に登場する解体業者の社長は、少年ばかりか母親も一緒に住めるよう、アパートの一室を寮として借り上げてくれるが、その点は基本的には映画でも同様だ。しかし、映画では、山寺の本とは違って、妻に先立たれた社長を秋子が誘惑するというフィクションが、挿話として嵌め込まれている。

▼また、山寺の本によると、二審では専門家証人が少年と母親との関係を「共依存」として説明しているが、映画でも同じく「共依存」という言葉が強調されている。もっとも、映画だけでみられる、「僕はお母さんが好きなんですよ」という少年(奥平大兼)のセリフは、やや説明過多のような気がするが――。

▼さて、大森監督の作品は、すべての人間がどこかホッとする善人として描かれている点が、一つの特徴かもしれない。たとえば秋葉原事件を扱った「ぼっちゃん」もそうだった。「マザー」でいえば、とりわけ遼(阿部サダヲ)が憎めない人として描かれている。遼はほとんど少年の母親=秋子(長澤まさみ)に寄生しながら母子に対し暴力を振るうダメ人間だが、闇金から追い込みをかけられたとき、最後くらい恰好をつけると言い残して母子のもとを去る。しかし、どうしようもなくなり「秋子、助けてくれ」とラインを繰り返し秋子に送ってくる。

▼ただし、秋子についてだけは、まったくの悪人ではないけれども、憎めない善人でもないという、難しい性格設定がなされているようだ。その微妙な境界を長澤が、感心するほど上手く演じている。ここからは蛇足だが、かなり以前に日本子どもソーシャルワーク協会の男性スタッフと、実写版映画「タッチ」で長澤の演じていた朝倉南の話をしていたとき、傍にいた女性から「男の人は、何かといえば南ちゃんの話ね」と、皮肉まじりに呆れられたことがある。その頃から15年くらいか、長澤まさみはコミカルな人物からシリアスな人物まで、ずいぶん幅広い役がこなせるようになったものだと思う。