児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

優しい配慮:「三島由紀夫vs東大全共闘」

Vol.56 更新:2020年6月29日

▼「50年目の真実」という副題のついた映画「三島由紀夫vs東大全共闘」(豊島圭介監督)には、瀬戸内寂聴が三島の優しさについて語るシーンが挟まれていた。寂聴は、たしか日経新聞の「私の履歴書」だったと思うが、まだ少女小説を投稿していた頃、いくつかのペンネーム候補を記した手紙を三島に出し、その中から一つを選んでもらったことがあると書いていたと思う。未だ何者でもない投稿少女に対し、こういう配慮が出来る三島の優しさは、寂聴に指摘されるまでもなく、この映画に溢れていたと思う。

▼三島と学生とのあいだの討論は、駒場へ単身のりこんだ三島に、縦の会が影のように付き添い、一方、学生側も日共=民青による襲撃に備え、壇上近くを全共闘学生で固めて開催された。まず、学生服姿の木村修が、三島を思わず「先生」と呼んだあと、「東大教師よりは、三島さんの方が先生と呼ぶに値する」と述べる。そして、人間にとって他者とは何かと、議論の口火を切る。討論でも批判されている丸山真男あたりなら、この議論の口火に対し、いかにも教官の口吻で、生煮えの議論なんかするもんじゃないとでも言いながら優位に立ちたがるだろうが、三島は「私の嫌いなサルトル」まで持ち出して、徹底して学生の提起した質問に真摯に向き合いつつ、自らの「決闘の論理」を語る。

▼また、講義用の机をバリケードとして用いるとき、諸君の存在自体も生産関係から切り離されていると三島が提起したことに対し、別の学生(芥正彦)は、そこの関係の逆転にこそ革命があるのだから、物書きは文字と机が同じ重さにならなければレシやロマンになってしまい、三島は敗退すると主張する。すると、三島は、ここでも真摯に議論に応じ、空間と時間との関係に言及する。(討論を文字起こしした『美と共同体と東大闘争』によると、この先の議論は弁証法のアンチテーゼとしての「自動律」−「自同律」の誤植か?−に及ぶが、映画ではどうだったか、聞き逃してしまった。)

▼こういった議論が延々と続く。いかにも東C(東大教養部)らしい議論といえばそのとおりだが、このような議論は、ないよりあったほうがいい。一見、無駄に映る議論の時間が、どれほど後の文化を豊かにするか、はかりしれないものがあるからだ。壇上で三島や学生が、ひっきりなしに煙草に火をつけたり、煙草を交換したりするシーンも同じだ。1969年には当たり前だった、こういう無駄にみえる行動や時間は排除され、ひたすらクリーンなイリュージョンが強要される嫌な世の中になってきた。だからこそなお、1969年当時の三島と東C学生の優しい配慮は貴重だ。

▼ところで、新型コロナウイルス感染症に伴う映画館閉鎖が解け、いまは少しずつだが、新作が上映されるようになりつつある。一方で、閉鎖前に封切り予定だった作品が、遅れて上映されてもいる。「21世紀の資本」「世界で一番貧しい大統領」といった作品群だ。それらの中で、この「三島由紀夫vs東大全共闘」が、最も興味深かった。