児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

少年たちの反撃:「レ・ミゼラブル」

Vol.54 更新:2020年4月13日

▼「レ・ミゼラブル」(ラジ・リ監督)は、評判通りの秀作だ。なけなしの小銭を掻き集め、サッカー・ワールドカップを観戦するために、三色旗とともにパリへ出かけた少年たちが帰る場所は、私などには馴染みのない、モンフェルメイユという、衰退する郊外の団地だった。モンフェルメイユは、ユゴーの「レ・ミゼラブル」の舞台ということだが、いまや犯罪多発地帯として有名で、この映画の一場面によれば、ユゴーの名を連想する人は、皮肉を込めてインテリに分類されるらしい。

▼モンフェルメイユへ転勤してきた警官のステファン(ダミアン・ボナール)は、強圧的な犯罪対策班に配属され、クリスとグワダと3人で、パトロールへ向かう。街では、黒人の「市長」(もちろん投票で選ばれた市長ではない)グループと、ムスリム同胞団グループが、それぞれの勢力を率いて均衡を保っている。そこへ共同体外の人々(ロマ)が関係すると、「やっかいなこと」になる。なのに、衰退する団地に住む少年イッサは、ロマのサーカスから、子ライオンを盗んでしまった。

▼犯罪対策班の三人は、ロマに対し、盗まれた子ライオンを探し出すと約束する。つまり、強圧的な犯罪対策班といえども、闇雲に住民を弾圧すればいいと考えているわけではなく、各勢力間の均衡を崩さないよう、腐心しているということだ。しかし、その過程で、グアダは、ゴム弾でイッサ少年の顔面を傷つけてしまう。そればかりではない。その瞬間は、別の少年が操縦するドローンによって、撮影されていた。グアダとクリスは揉み消しをはかろうとするが、ステファンも含め、最終的に少年たちの反撃にさらされる――。

▼少年たちによる反撃の場面は、ユゴーの描いた六月暴動もかくやと思わせるほどの、圧巻だ。かつては、被抑圧階級の大人たちが、弾圧されることをかえりみず決起したが、この映画では大人たちは決起しない。もちろん、ところどころで母親たちが令状なしの操作に抗議する場面はあるが、基本的には、「市長」グループやムスリム同胞団グループ、そして警察の要請に応じる「ハイエナ」など、戦後日本における警察−暴力団の癒着的支配と同様の構造があるだけだ。

▼その背景には、犯罪対策班の警官たちも、社会的・経済的に恵まれているわけではないという事情がある。そういう中で、廃墟に近い団地に暮らす少年たちだけが、重火器まがいの手製武器を手に、警察と対峙することが出来る。ここにこそ希望があるというべきだが、彼らが対峙するのは、警察機構の末端でしかない。

▼一説によると、この映画を官邸で観たマクロン大統領は、モンフェルメイユの生活改善を指示したという。それがほんとうだとして、現下の新型コロナウィルス騒動の渦中でも生活改善を優先させることが、マクロンに出来るのか。出来ないだろう。以上が、ウィルスを警戒しながら、閑散とした二番館を探して映画を観ている、私の率直な感想だ。