児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

経済国家vs.新聞:「国家が破産する日」「i」(+2019年ベスト5)

Vol.52 更新:2019年12月20日

▼血沸き肉躍る興奮場面もなければ、サスペンスがもたらす緊張場面もない――経済国家ドラマという、これまでにありそうでなかった映画のジャンルを想定しうるとすれば、それら二つの「ない」が特徴ということになるかもしれない。「国家が破産する日」(チェ・グクヒ監督)を例に、もう少し説明してみる。

▼1997年のアジア通貨危機は、韓国経済を国家破産の瀬戸際にまで追い込んだ。このとき、韓国銀行の女性政策チーム長は、危機の情報公開を主張して乾坤一擲の記者会見を開くが、すべては握りつぶされてしまう。背景には、国際通貨基金(IMF)と結びついた米国の思惑があった。その陰で、金融コンサルタントは大金を手中にし、他方で中小工場の経営者は自宅までをも失ってしまう――。

▼第二次世界大戦を契機につくられたIMFと世界銀行については、バタイユによる秀逸な指摘がある。バタイユにとって、幸福につながる経済政策は、生産を主眼とする政策ではなく、消費(蕩尽)を主眼とするものだった。したがって、アメリカにとっての蕩尽であるマーシャル・プランによる戦後復興援助は、いわば経済の理想型に近いものと言いえた。他方、世界銀行とIMFは出資国の利害を第一義とするものであるから、不純な経済政策だった。だからこそ、アジア通貨危機においても、IMFによる韓国支援は、米国の利害を第一義にするばかりで、韓国の民衆の利害などは、はなから考慮するはずもなかった。

▼こうなると、悪は米国に操られたIMFであり、被害者は韓国の民衆であることは明らかなはずなのに、あまりにも抽象的な悪は反撃の対象として焦点を結ばず、国家犯罪ドラマであれば登場するはずの、血沸き肉躍る場面は登場できない。同時に、被害者であるはずの民衆は、こざかしく金もうけに走る者と愚直にも財を失う者の二極に分かれ、企業ドラマなら生れるはずのサスペンスは、全く生まれようがない。せめて新聞報道だけでも健在であれば、様相は違ってくる可能性があるが、すでに紹介したように各紙は、あろうことか1行も報道しなかったのだ。

▼今の日本の新聞報道も同じではないか。劇映画「新聞記者」と同時進行の企画としてつくられたらしい「i-新聞記者ドキュメント」(森達也監督)は、劇映画で登場しなかった菅官房長官の記者会見における、望月記者の質問場面を画面に入れ込んでいた。だが、カタルシスはなく、ただ他社の不甲斐なさを目立たせるばかりだった。森監督は不甲斐なさの原因を部数が伸びるかどうかの「市場原理」で説明しているが(2019年12月16日「毎日」夕刊)、ほんとうの市場原理は、経済国家という、眼に見えにくいもののほうにあるのではないか。

▼閑話休題。恒例(?)の座興として、この映評シリーズで取り上げなかった映画のうち、2019年のベスト5を記す。「家族を思うとき」「ブルーアワーにぶっ飛ばす」「よこがお」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」「センターライン」(順不同)。