児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

大衆が実体だった時代:「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」

Vol.50 更新:2019年10月23日

▼前作「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー」は、テレビドキュメンタリーが波及力を伴った映画にもなりうることを、証明した作品だった。その続編である「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」(佐古忠彦監督)は、前作と共通する主題を扱いつつ、前作にはなかった場面も織り込んだ作品だ。

▼沖縄人民党事件と刑務所暴動、軍用地問題(プライス勧告と島ぐるみ闘争)、国会における佐藤首相との論戦――これらは、前作と共通する主題だ。これらを通じて映画が伝えたのは、一言でいうなら、大衆が実体だった時代の状況だ。事実、前作にも続編にも、大衆や民衆という言葉が、何度も登場する。そして、その言葉が、単なる教条的スローガンではなく実体だったことは、米軍により給水を止められた「水攻め」の時点でも、なお瀬長亀次郎を支持した人々の行動が証明していた。

▼教公二法闘争(教職員の政治・争議行為を禁止する法律に反対する沖縄教職員会を民衆が支持した闘争)、コザ暴動、レッドハット作戦(知花弾薬庫のVXガスによる中毒事故)――これらは、続編で新たに追加された主題だ。このときにも、やはり実体としての大衆が果敢に登場する。

▼では、いまも大衆は、沖縄で実体としてありつづけているのか。映画は、ありつづけていると言っている。かつての軍用地問題は、辺野古の土地収用も含んでいたし、市長に当選した瀬長亀次郎を追い落とすために米軍と通じていたのは、仲井間前知事の父親だった。こういった事実は――私などは映画で初めて知った事実だが――、現在の辺野古問題や知事選の結果を含む「オール沖縄」の考え方と行動へ、連続しているということなのだろう。

▼蛇足だが、実体としての大衆の行動は、当時の本土復帰といったスローガンに結びつけられると、ナショナリズムに転化されてしまうものだろうか。G・オーウェルは、ナショナリズムとパトリオティズムを区別して、次のように言っていた。後者は、ある特定の場所や生活様式への愛着だが、その愛着を他人に押しつけようとはしない。だから、軍事的にも文化的にも防衛的だ。対照的に、前者は、権力への欲望と切っても切れない関係にある。だから、個人を埋没させて国家に権力や威信を付与する。

▼少なくとも、この映画に基づく限り、大衆は本土復帰のナショナリズムに吸引されていたようには見えなかった。(日本ナショナリズムばかりか、沖縄ナショナリズムという言い方も、出来そうにはなかった。)

▼ところで、瀬長亀次郎は、次女の千尋さんを、コゼット(人民党事件で投獄された亀次郎が獄中で愛読した「レ・ミゼラブル」の少女)と呼んでいたという。映画で観る当時9歳だった千尋さんの写真と、現在の「不屈館」(瀬長亀次郎資料館)館長として語る千尋さんは、年月を隔てていても、面差しが全く変わっていない。