児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

あえて考えるための素材を提供:「生きるのに理由はいるの?」

Vol.49 更新:2019年9月11日

▼「津久井やまゆり園事件」が問いかけたものは、、、というサブタイトルが付された「生きるのに理由はいるの?」(制作=津久井やまゆり園事件を映画化する制作集団)は、ちょっと考えると不思議な映画作品だ。いま「映画作品」と書いたが、「作品」と呼ぶべきかどうかも定かではない。企画・制作の澤則夫からいただいた手紙によると、ドキュメンタリー作品とは考えておらず、あくまでも事件を考えるための素材だという。そのためか、エンドロールにもフライヤーにも、監督の名前が記されていない。それどころか、「監督」という文字さえ見られない。

▼いうまでもなく「津久井やまゆり園事件」とは、同園の元職員の植松聖が惹起した、いわゆる相模原障害者殺傷事件を指す。「作品」は、この事件について、植松の主張とともに、彼の生育史、ネットに書かれた反響、同園では皆が仲良く笑顔で暮らしていたという言説は嘘だとする入所者家族の言葉、雑誌「創」に寄せられた読者の手紙、原案の堀利和が重要と考えている「きいちゃん」という女性をめぐるエピソードなど、多様な「素材」から、文字どおり一人ひとりの観客に自分の頭で考えるよう、うながす仕組みになっている。

▼そこで、私も、「作品」を観て考えた内容の一端を、ここに開陳してみたい。まず、この「作品」には、どのような重い障害者にも「進歩」がある、という発言が出てくる。しかし、私はこの「リベラル」な考えに賛同しない。また、「何も出来ない子」というとらえかたは間違いで、誰もが出来ることがあるはずだという発言も出てくる。私はこの「リベラル」な考えにも賛同しない。「進歩」も「出来る」も、たかだか人生の意味の一部を構成することがあるに過ぎず、人生の価値とは無縁だからだ。このような意味偏重の〈思想〉は、植松の〈思想〉(彼は「優れた遺伝子にまさる価値はありません」と、意味と価値を混同してとらえている)と同根だ。「作品」では、東大集会における、障害を有する人の姉ただ一人が、存在するだけで価値があると言い切っていた。

▼もう一つ、植松の〈思想〉を妄想だとする考え方に、私は反対だ。連合赤軍事件のときにも、「リベラル」な市民主義に合わない〈思想〉をすべて妄想と決めつける、精神科医がいた。こう決めつけておくと、誰もが病気にされたくないから、自ら考えることを放棄してしまうだろう。為政者にとってはまことに都合がいい。

▼ところで、この映画は、10人から30人くらいで上映会を開き、事件を考える場をつくるために制作したのだという。一方で、2019年10月14日(祝)には、新宿ロフトプラスワンで、「相模原障害者殺傷事件の真相に迫るVol.2」と題する上映とトークセッションが開催されることになっていて、私もゲストとして登壇する予定だ。拙著『いかにして抹殺の思想は引き寄せられたか』(ヘウレーカ)が、原案の堀を通じて制作の澤の目に留まった縁だろう。事件を〈思想〉として剔抉する機会になればと思う。