児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

子供の智慧:「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」

Vol.47 更新:2019年6月10日

▼「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」(マイケル・ドハティ監督)の観客動員数が、日本でも順調のようだ。このハリウッド製ゴジラ第2作に対しては、第1作と同様に、日本の熱心なゴジラファンからは、若干の好感とともに多数の疑問や批判が、提出されることだろう。否、すでに提出されているに違いない。私のような、ごくささやかなゴジラファンでも、いくつかの異議が湧き上がってくるほどだ。

▼その最大のものは、芹沢博士の位置づけだ。邦画初回作でオキシジェン・デストロイヤーとともに死へ向かう芹沢博士は、特攻隊のように死んでいったのではなかったはずだ。第二次世界大戦で片目を失った彼にとって、戦後の生と学問は、坂口安吾風に言うなら、虚無以外の何物でもなかった。しかし、今度のハリウッド版で描かれている芹沢博士(渡辺謙)は、虚無とは反対の、特攻隊の戯画でしかない。つまり、やはり安吾風に言えば、「子どもの遊び」そのものということになる。

▼ついでだから、安吾の文章から有名な部分を、引用しておこう。《原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。/自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。/私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。/学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。》(「不良少年とキリスト」)

▼では、ハリウッド版第2作での、「ゲンバク」の扱いはどうか。ゴジラは「ゲンバク」によって人工的にエネルギーを補給され、敵と戦う。敵として設定されているのは、環境主義テロリスト集団だ。このあたりは意図的な皮肉で、反核−環境原理主義者が目くじらを立てるよう、計算しているに違いない。この点に関しては、チェン博士役の女優チャン・ツィイーも「監督はきっと皮肉な手法で何かを表現したかったはず」(毎日新聞2019年6月4日夕刊)と述べているから、おそらく間違いがない。だから、観客としては、やすやすと引っかかって目くじらを立てないように、気をつけていれば済むことだ。

▼ただし、一部で褒めそやされている、日本のゴジラシリーズへのリスペクトなるものが、上に記した程度でしかないことは、知っておいたほうがいい。伊福部昭の音楽を十二分に流していることと、ラドンや(私の見間違いでなければ)クモンガらしき怪獣が2箇所ほど登場するシーンは、たしかにリスペクトだろう。だが、CGによる、やたらに頭部が小さい三大怪獣の姿は愛嬌に欠け、どうしてもいただけなかった。安吾なら、「子供の原始そのままの生活力や仁愛にも敗北してしまう平常時の訓練や教養」を嘲笑しているという意味で、「子供の智慧」とでも定義するところだろうか。