児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

人間のいない映画:「Godzilla怪獣惑星」(+2017年ベスト5)

Vol.36 更新:2017年12月25日

▼DVDマガジンというのか、正確な呼び方を知らないが、講談社が過去のゴジラシリーズの全映画を、隔週で刊行している。それを定期購読しているから、半ば義務のように観ているのだが、作品の質は玉石混交だ。「玉」のほうは、単なる水爆批判や文明批判にとどまらず、どこかで状況に民話ないし神話の要素が取り込まれていたり、怪獣そのものに人間観・社会観が投影されているのが特徴だ。反対に、「石」にはそれらがみられない。

▼「玉」であっても「石」であっても、特撮実写映画であることについては、もちろん共通している。ところが、意表をついて、アニメ映画が登場した。「Godzilla怪獣惑星」(瀬下寛之・静野孔文監督=なぜ監督が2人なのかは知らない)がそれだ。もっとも、アニメはとくに奇抜なアイデアではないから、今までになかったのが不思議なくらいだ。だから、意表でも何でもないのかもしれない。

▼ストーリー自体は、「猿の惑星」(その第1作は特に優れているが)みたいなもので、とりたててオリジナル性はないと思う。ただ、ヒグマかシロクマのような顔のゴジラが、従来の数十倍(?)もあり、現在の地球の物理的環境を基準にして想像する限り、自重で潰れるほかはないと思わせる巨大さだ。そのためか、この作品のゴジラは、ほとんど動かない。誘導に沿って動くことにはなっているし、たしかにそのように描かれているのだが、観客にとっては重くて動けない印象のみが残る。

▼だから、この映画のゴジラに、むりやり何かを投影し、メッセージを読み取ろうとすれば、人間は肥満化し動けなくなるという、身も蓋もない教訓だけになってしまう。だが、それ以上に、とにかく不快なほどの不気味さが、この映画には漂っている。それは、ゴジラの身体は金属に変化していると説明されていることからもわかるように、有機的人間がすべて消えていくような不気味さだ。人間のいない後味の悪さと、いいかえることもできる。たしかに「地球連合」の人々(?)はいるが、喜びも悲哀も入り込む余地はない。

▼あえて、こういう後味の悪さを狙ったのだろう。続編も、この後味の悪さを持続させることができるなら、それは一つの思想といってよい。そうなるか、それとも、一転して常識的少年少女映画の水準に戻してしまうのか。興味深いところだ。

▼附録として、2017年に私が映画館で観ることの出来た作品から、これまで私が取り上げてこなかったものに限って、ベスト5を挙げてみる。(もちろん座興だから、あまり目くじらを立てないでください。)第5位から順に、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(ケネス・ロナーガン監督)、「夜は短し歩けよ乙女」(湯浅政明監督)、「僕とカミンスキーの旅」(ボルフガング・ベッカー監督)、「ビジランテ」(入江悠監督)、そして第1位が「パターソン」(ジム・ジャームッシュ監督)。なお、番外編として、「熱砂の誓ひ」(渡辺邦男監督、1940年)と「ランデヴー」(クロード・ルルーシュ監督、1976年)も観ることが出来て満足した。