児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

ふりむけば夢ばかり:「あゝ、荒野」

Vol.35 更新:2017年11月10日

▼前編と後編に分かれた映画は、観客にとって、あまりありがたいものではない。前編を見逃してしまえば、後編だけを見ようという気にはなかなかならないし、前編がつまらなかった場合、後編を見るかどうかは迷うところだ。しかし、「あゝ、荒野」(岸善幸監督)は、前後編に分けて正解だったのではないか。ちょうど少年漫画雑誌の連載を待つような感じで、大きすぎも小さすぎもしない期待を、持つことができるからだ。

▼前編は、少年院から出てきたばかりの新次(菅田将暉)と床屋で働く建二(ヤン・イクチェン)を、片目こと掘口(ユースケ・サンタマリア)が、海洋(オーシャン)拳闘クラブへ勧誘するところから始まる。1966年刊行の寺山修司による原作と似ているが、映画の舞台は2021年だ。(もっとも、背景に流れる競馬シーンに、ダノンバラードやナカヤマナイトといった、2010年代のオープン馬の名前が登場するのは、ご愛敬だろう。)

▼その前年に東京オリンピック2020が開催された(はずである)ことと関連させているのだろうが、新次の父は、新国立競技場が建てられる前の団地で、首を吊って死んだ。父は帰還兵で、彼を死へと追い詰めた人物は、戦地で上官だった二木建夫つまり建二の父だった。その建夫も、今はホームレスとなり希死念慮を抱えている。他方、2021年の政治課題は、「社会奉仕プログラム法」と呼ばれる、事実上の徴兵法だということになっている。

▼海外派兵と帰還兵の自殺に、サウンド・デモを対置させる映画の構図は、2017年の今日から敷衍される光景だ。だが、東京オリンピック1964の直後と同様に、自らの身体によってしか状況に抗うことのできない、ボクサーの卵たちがいる。こういう対比は悪くないと思う。活劇として絵になっているからだ。もう一つ言えば、結局は自分ひとりを恃むしかないという思想に、裏打ちされているからだ。

▼さて、後編では「つながり」という言葉が乱発されるが、それらを映画はすべて拒絶する。拳闘クラブのスポンサーである社長の秘書が新次の母=京子だという、原作にはない「つながり」を、新次は受け入れない。また、新次と肉体を重ねる芳子も、片目こと掘口と性交する芳子の母も、福島の仮設住宅から逃れ上京したが、「つながり」に救われたことはない。そして、建二が別のジムに移ってまで新次に挑戦しようとするのは、「つながり」(原作では「のっぴきならない関係」)を求めているからだが、「つながろうたってそうはいかない」と、新次は心の中で叫ぶ。「つながり」という言葉に辟易した耳には、心地よく響く叫びだ。

▼最後に。どうみても体重差のある二人が試合をするといった不自然さを蹴散らすような、この映画の名シーンは、「ふりむくな/ふりむくな/うしろには夢がない」(原作者の「さらばハイセイコー」より)というセリフに続けて、片目こと掘口が「ふりむけば夢ばかり」と応じるところだろう。意味がありそうで意味がない。こういう遣り取りが、1960年代にあって現在にはない(おそらく2021年にもない)魅力だといえる。