児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

巨匠健在:「わたしは、ダニエル・ブレイク」

Vol.32 更新:2017年6月13日

▼高齢になっても映画を撮り続ける監督がいる。引退を撤回して、再びカメラを回す老巨匠もいる。だが、たいていの場合は「もうやめておいた方がいいのに」と思わせるだけの、結果に終わる。もっとも、数少ないとはいえ、例外はある。その例外に相当するのが、ケン・ローチ監督による「わたしは、ダニエル・ブレイク」だ。

▼この映画は、心疾患のため大工の仕事を禁止されたダニエル(デイヴ・ジョーンズ)に対する医療福祉的審査が、無味乾燥なマニュアルに基づく質問の読み上げによって、行われるところから始まる。返答の中にジョークを挟む余地すらなく、ましてや、ささやかな抗議が受け入れられる可能性は、ゼロに近い。同様の場面は、電話による問い合わせに対する、当局の応答にもみられる。受話器から延々と流れる録音テープの言葉を何とか突破し、やっと肉声による応答が得られると思ったら、そこには、やはり無味乾燥なマニュアルを繰り返すだけの、感性の欠片もない説明が、待っているだけだ。

▼これらは、顧客(コンシューマー)の生の声を封殺するためには、もっとも効果的な方法だ。民間であれ公的機関であれ、顧客係の数や賃金は最低限にまで切り詰められているから、こうでもしない限り、顧客係の身が持たない。つまり、顧客に我慢と犠牲を強いることを前提としてしか、顧客係のメンタルヘルスは守られない仕組みになっている。付け加えるなら、顧客に対し居丈高に振舞うことでも、顧客係のメンタルヘルスは束の間の安定を得る。

▼住民(コンシューマー)を犠牲にして成り立つ制度は、他にも枚挙にいとまがない。ロンドンから追い出された、生活保護受給者のケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)は、娘のデイジーとともに、ニューカッスルの、タイルが剥がれトイレも壊れたアパートを紹介される。しかし、ジョブ・センターは、彼女たちを助けなかった。彼女たちにささやかに力を貸したのは、フードバンクとダニエルだけだった。

▼これらの情景が、くすんだ色調の建物群を背景にして、描き出される。決定的な悪人が登場するわけではない。いわばサッチャリズム以降の社会システム全体が悪人だ。他方、これみよがしではないが、善人は至る所にいる。ただ、善人として振舞いうるほどには、誰もが経済的にゆとりがない。そして、それを象徴する場所が、ニューカッスルだった。

▼そんな中で、幼いデイジーは、収入を失ったダニエルの家を訪ねた。彼女は、会おうとさえしないダニエルに向かって、「あなたは私を助けてくれた、今度は私があなたを助ける」と話しかけた。通常なら、こんなセリフで描き出すことが可能なものは、質の悪い道徳くらいだろう。しかし、観客は、ここで民衆の連帯を、実感することになる。けっして大上段にふりかぶってはいないが、正義と誇りに貫かれた連帯を、巨匠は描いた。大作ではないが、巨匠が最後に描く作品としては、これ以外にないと思わせる。年季が違うということだろう。