児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

残念ながら教育映画:「母」

Vol.29 更新:2017年3月21日

▼現代ぷろだくしょんの映画と言われて、まっさきに思い出されるのは、昔の「蟹工船」だろう。小林多喜二の原作で山村聰監督・主演の、この映画は、伊福部昭の音楽とも相まって、社会主義リアリズムに堕すことなく制作された、第一級の作品に位置づけられると思う。その現代ぷろだくしょんが、最新作として「母」(山田火砂子監督)を送り出した。「小林多喜二の母の物語」というサブタイトルがつけられた、この作品で、多喜二の母を演じるのは寺島しのぶだから、みないではおれないという気持ちにさせるのには十分だ。だが、私のみかたが悪いせいか、何とも中途半端な教育映画という印象ばかりが残った。

▼多喜二の母=セキは、秋田県釈迦内村の貧しい家に生まれた。読み書きは習わなかったが、手仕事は器用だった。15歳で小林末松のもとに嫁ぎ、チマ(松本若菜)、多喜二(塩谷瞬)らを産み育てた。多喜二は、長じて北海道拓殖銀行へ入社し、給料で弟の三吾(水石亜飛夢)にヴァイオリンを買ってあげた。その後、次第に非合法共産党の活動に邁進するようになった多喜二は、官憲に追われ地下へ潜った。とにかく息子を一目でも見たかった母は、ついに官憲の目をかいくぐって、中野の喫茶店で密かに息子と会うことに成功した――。

▼ここまでは、曲がりなりにも母の語りで、ストーリーが展開する。しかし、喫茶店のあとのシーンから、突然「私は・・・」という主語で、多喜二の独白がはじまる。この箇所は、違和感を与えるという以上に、作品の流れとして、破綻しているのではないかという感覚を、観客に抱かせる。つまり、ここで、母の映画なのか多喜二の映画なのかが、わからなくなってしまうのだ。結局、多喜二は特高により捕えられ、虐殺される。母は、「法律とは何でしょう!」と叫ぶ。良い観客ではない私などが、教育映画じゃないかと思ってしまうのは、このあたりに理由がある。

▼多喜二が虐殺されたのは、彼の小説「一九二八・三・一五」の中の拷問場面が、特高の怒りに触れたからだと言われている。ところで、同じ三・一五事件を扱った中野重治の小説「春さきの風」には、「生から死へ移つて行つたわが児を国法の外に支える」という記述がある。弾圧の中で死んだ赤ん坊に対する、母の心理を記した部分だ。やや生硬な表現だが、「国法の外」というところが、ポイントだ。親子の心的関係は、「国法の外」にある。そう断言することによって弾圧を超えようとする、きわめてすぐれた表現だ。他方、残念なことに、「母」には、そういう発想がない。ただ、母が字を学び、たどたどしい表現を身につけた結果が価値であるかのように、描かれているだけだ。

▼閑話休題。宮本百合子役の露のききょうは、憎めない雰囲気が出ていて、なかなか楽しかった。露のはクリスチャンだというから、「母」の原作者=三浦綾子とのキリスト教つながりで、起用されたのかもしれない。なお、ほんものの牧師も出演しているらしいが、私にはプロの役者と区別がつかなかった。