児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

波頭のリズム:「ゴンドラ」

Vol.28 更新:2017年1月25日

▼「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」――寺山修司の代表作というべき、この短歌を映像化しえたなら、どんな作品ができあがるだろうかと、ときどき空想することがあった。海を知らない前思春期の少女は、純真無垢にみえても、ほんとうは深く傷ついている。だから、少女の眼には、外部世界が歪んで映る。他方、外部からの視線は、いつも少女の内面にまで届くことはない。ただ、下北半島出身の青年だけが、両手をひろげて、ゆがみを沿海の波頭へと置き換えるすべを、教えることができた。

▼そんな空想に、ぴったりの映画が現れた。「ゴンドラ」(伊藤智生監督)が、それだ。もっとも、1987年公開作品のデジタルリマスター版だというから、「現れた」というよりは、正確には「復活した」というべきかもしれない。いずれにせよ、映画自体は、それほど複雑なつくりではないし、ストーリー展開も特に難しくはない。小学5年生の少女「かがり」(上村佳子=子役)は、母(木内みどり)と二人でマンションに暮らしている。

▼別れた父(ヒデとロザンナの故・ヒデ)は、音楽家らしい。幻の父は、道路に五線を描き、音符を書き入れている。しかし、楽譜は、散水車によって、簡単に消されてしまう。一方、学校でいじめを受けている「かがり」は、ゴンドラに乗ってビルの窓を清掃する「良」と出会う。「かがり」は、ビルとゴンドラを描いた自らの水彩画を持って家出をし、「良」とともに、下北半島の海沿いにある「良」の実家へと向かう――。

▼「かがり」の眼には、歪んだ外部世界の像が、次々と出現する。初潮ゆえのめまい。牛乳を飲みほしたあとのコップの底を通して見える風景。調子の悪いブラウン管テレビ受像機。これらはすべて、「かがり」にとっての世界の歪みだ。少女が自分だけの力で歪みに立ち向かおうとしても、勝負にはならない。かろうじて廃線とおぼしき一対の鉄路のみが、歪みを切り裂くかにみえても、それもすぐ陽炎のような空気の歪みにからめとられてしまって、めまいの世界に引き戻される。

▼「かがり」を、死から踏みとどまらせたものは、父の遺した音叉だけだった。音叉の「a」の振動数が、外部世界を立て直す役割を果たしている。そして、それが「かがり」の内部世界と共振する。その先に現れた東北本線の鉄路は、陽炎にからめとられることなく、確実に「良」の実家がある海辺へと続く。その結果、「かがり」は、音叉以外に青森の海の波頭がつくるリズムもまた、内外の世界を同期させうることを、「良」によって教えられた。

▼ところで、寺山修司には、「ひとの不幸をむしろたのしむミイの音の鳴らぬハモニカ海辺に吹きて」という歌もある。「かがり」も、海辺の廃校でハモニカを吹くが、鳴らぬ音はない。父のメトロノームは壊れたが、ハモニカを波頭に同期させて吹き、世界を再生させたのは「かがり」自身だった。青年のひろげた両手をみながら、少女は無限の時間を自分で切り拓いたのだった。