児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

青春の囲いの向こう:「オーバー・フェンス」

Vol.26 更新:2016年11月2日

▼佐藤泰志の小説が次々と映画化され、いずれも好評だ。『海炭市叙景』、『そこのみにて光輝く』に続き、『オーバー・フェンス』も山下敦弘監督の手によって映画になった。原作は、佐藤作品には珍しい(?)、いわば爽やか系の小説だ。もちろん、舞台は函館だから、例によって華やかさはないが。

▼しばらく、小説のほうの話を続けてみる。時代は1980年代(「ついこのあいだ」トリュフォーが死んだと書かれているから1984年あたり)に設定されている。そして、「・・・缶ビールを二本飲んで探偵小説を読んで寝る。悲しい青春だ。」という会話が登場する。村上春樹でもあるまいし、といった半畳を挟みたくなるところだが、「悲しい青春」というところは認めてもよい。衰退する地方都市でも、何とか生活するくらいはできる。しかし、先行きへの不安は増大する一方だ。だから、「僕」(「白岩」という名だ)がビールを飲むときは、心を安定化させるため、一本でも三本でもなく「二本」飲むことになる。(このあたりも、村上春樹の初期作品と同じだ。)

▼では、「悲しい青春」の向こう側には何があるのか。佐藤泰志は、無理にでも希望を示唆しようとした。350mLの缶ビールと縁を切るために、フェンスの向こうへボールを打ち返すべく、「僕」(白岩)はバットを振りぬく。そういう場面が、佐藤作品には珍しい、爽やか系の青春小説の骨格を構成している。

▼ここからは映画の話になる。映画の中の白岩(オダギリジョー)も、毎日ビールを二本だけ買って飲む。しかし、小説とは明らかに異なる、いくつかの挿話も描きこまれている。たとえば、小説では白岩は24歳だが、映画では「40過ぎでもいいって言ってくれる若い女の子がいるんだから」と評されるような雰囲気を漂わせている。また、白岩の前に現れる女性(「さとし」という男性のような名だ)は、小説では花屋の娘ということになっている。/p>

▼しかし、映画のさとし(蒼井優)は、昼は動物園が併設された遊園地、夜はキャバクラで働いている。さとしは、しかも、ところかまわず鳥の求愛ダンスをするし、白岩と二人きりの部屋で「これをやらないと身体が腐る気がするから」と言って、水道でタオルを濡らし強迫的に身体を拭く。つまり、そうとう傷ついた過去を持つ女性に設定されている。白岩の元妻である洋子(優香)も描き出される。洋子は、精神に変調を来たし実家へ戻ったあと、一定の回復を遂げている。久しぶりにあった洋子と白岩は、遊覧船の中で「これからは連絡取り合えない?」「うん・・・」といった会話を交わす。

▼要するに、シナリオの勝利ということなのだろう。原作者の柄にもない、爽やか系青春小説を、大真面目に換骨奪胎して、囲いの向こうにまで打ち返すことができるか。しかも、中年の入口にさしかかりながら、爽やか系の本質を取り戻すことができるか。それが、換骨奪胎された「オーバー・フェンス」の意味だ。