児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

もう一つの青春の映像化:「ディストラクション・ベイビーズ」

Vol.24 更新:2016年9月15日

▼毎日新聞の金曜夕刊に、一ページ全面を使って掲載される映評は、力がこもっていて読みごたえのあるものが多い。そこの常連執筆者の一人が、2016年6月25日の同紙朝刊に、「過激作品相次ぐ日本映画/安全志向を刺激する毒」という記事を書いていた。テレビ放送やシネコン上映を考慮した無難な娯楽作から潮目が変わり、暴力と流血描写を伴いながらも興行成績がまずまずである作品群を、プロの映評家として着目する内容だ。

▼「毒」の最たる作品が「ディストラクション・ベイビーズ」(真利子哲也監督)であることには、おそらく誰にも異論がないだろう。舞台となっている愛媛県松山市は、私も少しだけ知っている土地だ。(さすがに映画の中の伊予弁は、私が知っているそれとは微妙に違うようだが、しかし雰囲気はかなり出ている。)そこの繁華街=大街道で喧嘩が展開される。

▼子どものころに父親が死に、それ以前から母親がいなかった泰良(柳楽優弥)は、近藤(でんでん)に引き取られて育った。港町三津浜で喧嘩を繰り返していた泰良は、18歳時に松山中心部へ出奔した。そこでも喧嘩を挑み続ける泰良に、ちょんまげヘアの裕也(菅田将暉)が勝手に付き従う。裕也は、女性など弱い者しか相手にしないが、泰良は強面の風体の者だけを選んで、素手で喧嘩を売る。彼らの行動に巻き込まれるのがキャバクラで働く那奈(小松菜奈)で、さらに泰良を探しにやってくる弟=将太(村上虹郎)がいる。

▼別に、親がいないから暴力に手を染めるようになったと描いているわけではない。また、暴力行動に巻き込まれた那奈を、犠牲者として同情的に扱っているわけでは全くない。そして、喧嘩の相手は初対面の人たちばかりだから、何らかの恨みが介在しているわけでも、もちろんない。思想らしきものが紛れ込んでいるのは一か所だけで、それは港町三津浜では18歳になると神輿を担ぐというシーンだ。ここでいう神輿とは、いわゆる喧嘩神輿のことだ。岸和田のだんじりが有名だが、愛媛では新居浜の喧嘩太鼓もよく知られている。

▼映画の中の喧嘩神輿は三津浜の祭りで、映画では近藤が刑事の質問に対し「うちらのとこでは、18になったら神輿、担がないかんけん」という説明が加えられている。つまり、共同体公認で、しかも期間限定の暴力が、神輿だということだ。泰良は、共同体公認の暴力には見向きもしなかった。単独での喧嘩だけを求めた。それは裕也が勝手に付き従ってきた後も同じだった。

▼なぜ泰良は単独での暴力だけを求めたのか。18歳を少年から一足飛びに成人になる年齢として位置づけ共同体への参画を強いる伝承から自由になり、少年期にも成人期にも属さない数年間を一人で切り開こうとしたからだったと思える。誰からも評価されない、もう一つの青春を求めたといいかえることもできる。それにしても、柳楽優弥という俳優は、少年時代の「誰も知らない」や「星になった少年」からは、予想もつかないような変貌を遂げた。もう一つの青春を演じるにふさわしい変貌、という意味だ。