児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

行動する母子映画:「太陽のめざめ」

Vol.23 更新:2016年7月31日

▼家庭裁判所が重要な舞台の一つになっていても、およそ法廷映画とはいいがたい。また、ティーンエイジャーの軽微な暴力と恋愛が描かれているが、青春映画という枠にも入りそうにない。ましてや、献身的保護司が登場するからといって、道徳映画の退屈さは欠片ほどもない。話題作「太陽のめざめ」(エマニュエル・ベルコ監督)を、あえて名づけるなら、行動する母子映画といったあたりが、もっともふさわしいだろう。

▼自動車盗・無免許運転・暴行などを繰り返す少年マロニー(ロッド・パラド=新人)は、いつも母親(サラ・フォレスティエ)の愛情を求めていた。母親は、マロニーを抱きしめたかと思うと、「実はいい男性と出会ったが、その男性には子どもがいる話はしていないので、電話を架けてくるな」と言い放つ。若い母親が自らの子を愛しながらも、自分自身の恋愛に没頭せざるをえないあまり、わが子を顧みることができなくなるのは、現実の世界でもよくあるパターンだ。だが、この作品に関する限り、(映画業界の用語でどう呼ぶのか知らないが)多くが素早い画面の切り替えを用いて描かれている分だけ、単なる説明に堕していない。つまり、起伏が過不足なく描かれ、行動する母子映画というにふさわしい表現になっている。

▼マロニーは、更生施設の指導員の娘テス(ディアーヌ・ルーセル)と知り合い、一児をもうけることになる。このようなエピソードも、現実の世界では、母親を求めるかのように恋人に向かってしまうため、恋人は次第にそれを受け止めきれなくなり破綻するといった、軌跡をたどってしまいがちだ。しかし、この映画では、テスのボーイッシュな姿が、ぎりぎりのところで通俗化を防いでいる。母子関係の反復の抑止が示唆されているという意味で、これもまた、行動する母子映画たる条件を構成しているといいうる。

▼では、フローランス判事(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、この映画でどう位置づけられていることになるのか。彼女は、マロニーと約10年間、仕事を通して付き合うことになった。その間、更生に向かわないようにみえるマロニーを、更生施設ではなく刑務所へ送ったこともある。それでも、彼女とマロニーは、疑似母子関係だということがわかるように、映画は描きだしている。超大物女優のクローズアップをなるべく少なくして、複数の人物や雑然としたファイル類を同時に画面に入れることで、新人男優との比重が同等になるように工夫された方法論が、それを支えている。

▼パレンス・パトリエという言葉がある。現実の親が子どもを守り育てることができないとき、国家が親代わりをするというほどの意味だ。各国の少年法は、この思想をバックボーンにしている。ここでいう親代わりとは、歴史的には父親を想定しているのだろう。だが、現在では、父母両方の機能を想定せねばならないのではないか。マロニーがフローランス判事の忘れていったスカーフをポケットに入れ、また判事がマロニーの手を握るシーンは、現実の家裁判事としては逸脱だが、行動する母子映画にとっては不可欠の描写だった。