児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

映画的解釈の成功例:「ヒメアノ〜ル」

Vol.22 更新:2016年6月28日

▼原作が漫画である映画作品が、いまや圧倒的に多くなっている気がする。個人的には原作なしのオリジナル脚本を、優先して追求してほしいと思うが、もちろん面白ければ原作があっても別にかまわない。それはともかくとして、原作漫画が高度な水準であればあるほど、映画化が難しいのは当然だ。以前、古谷実の第一級作品を映画化して、どうしようもないほどの駄作になってしまった映画があった。古谷漫画に何故かエコロジーによる解釈を入れ込んだ映画だったから、コケるのも無理はなかった。では、「ヒメアノ〜ル」(吉田恵輔監督)はどうか。一観客としては充分に堪能できた。それは、ひとえに映画的解釈の成功によっていると思う。

▼この映画には、原作漫画と同じく、ビル清掃会社で働く岡田、その先輩の安藤、安藤が勝手に「天使」と呼ぶユカ、そしてユカが働くカフェに現れる森田が登場する。森田は、岡田の高校時代の同級生だが、当時とは明らかに雰囲気が変わっている。さて、映画の前半は、いわば青春ほのぼの映画風の展開だ。俳優の上半身がアップされるときには後景がぼかされ、昔の東宝映画か、あるいは昔の少年漫画を思わせる映像につくられている。わざとそうしているのだろうが、ここまでは観客に物足りなさを強いる。後半になると、暴力映画の様相を呈し、流血シーンが次々と登場する。ここで観客は、物足りなさを反転させるような速度を追いかけて愉しむことになるが、その間、自らの思考はいったん停止せざるをえない。

▼原作とは異なるラストシーンに至って、はじめて観客は、ところどころに挟み込まれた、森田の科白の意味に気づく。たとえば、森田は、ユカの働くカフェに繰り返し現れているにもかかわらず、尋ねられても「来てねえよ」と答えるだけだ。あるいは、公園のベンチで喫煙しているところを、見回りのタバコ取り締まりボランティアに注意された森田は、「吸ってないんで」と強弁する。これらのシーンを観ているときには否認としてしか映らない森田の言動が、実はそうではなく解離であったことがわかってくる。つまり、森田は、自覚して居直っているのではなく、そのような行動はとっていないと、ほんとうに思い込んでいるということだ。

▼だとすると、森田が高校時代に執拗ないじめの被害にあい、それに対する復讐として、いじめグループおよびその周辺にいた人たちや、本意ではないが結果的にいじめに加担してしまった岡田らを、暴力的に追い詰めているのだという凡庸な解釈は成り立たなくなる。もし、このような凡庸な解釈を使ってしまったなら、古谷の「ヒミズ」を反原発主義で解釈した駄作と、五十歩百歩に陥っていただろう。

▼凍りついた解離にも、溶ける一瞬がある。それは文字通り一瞬であって、永続化することはないだろうが、映画に封じ込められた解釈としてのラストシーンは、成功の裡に永続化する。原作の通俗化といえばいえるが、同時に観客を堪能させ唸らせる理由でもある。