プロセスとしてのストリートアート:「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」
Vol.21 更新:2016年5月25日
▼2013年10月の1か月間、ニューヨークの住民は、バンクシーによるグラフィティまたはストリートアートの全過程を、一二分に堪能したに違いない。ドキュメンタリー映画「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」(クリス・モーカーベル監督)を観ると、誰もがそう思うだろう。
▼10月1日、少年の背中に乗った別の少年が壁に描かれ、少年の手の先にはスプレー缶の図があり、「GRAFFITI IS A CRIME」という標識の一部になっている。バンクシーによるとされるこのアートを、まもなく誰かが「STREET ART IS A CRIME」という標識に書き換える。さらに、それを治安当局か自警団とおぼしき何者かが、白ペンキで塗りつぶしてしまう。ニューヨークの住民は、これらのいずれをも愉しむことができるし、そうしたければ写真に収めることもできる。いいかえるなら、「作品」は、最初のアートにとどまらず、そこから白ペンキが塗られるまでの過程全体ということになる。
▼2日、シャッターに「THIS IS MY NEW YORK ACCENT」というグラフィティが描かれる。ロンドンの字体とニューヨークの字体の差異がわからない私のような観客は別として、多くのニューヨークの住民は、その差異の共有を前提にして、この作品を愉しんだことだろう。3日には犬と消火栓のシルエット、4日にはネズミ・・・。こうして11日、後に映画の中で最も有名になったシーンが出現する。「FARM FRESH MEATS」と書かれたトラックに、ぬいぐるみの豚や羊やパンダが載せられ顔だけを覗かせている。だが、エコロジストのキャンペーンに堕することは、ぎりぎりのところで回避されている。言い換えるなら、ぬいぐるみにこそ生命があり、人間には形式しかないように、構成されている。
▼ところで、映画の中で、インタヴューに答える女性が、(好意的な言い方で)「バンクシーは、裏で許可をとっていて、法に触れないぎりぎりの線を確保しているのでは」という趣旨の話を述べていた。そうなのかもしれない。落書きやパフォーマンスやインスタレーションとして作品を呈示し、観客が自発的に参加・鑑賞した後に、当局が撤去するという過程全体を商品化するには、何度も逮捕され裁判を演じるわけにはいかないからだ。
▼私たちは、コンテンポラリーアートを標榜する美術展に出かけると、ときに観客参加型の作品に出くわすことがある。出くわすことが避けられないと言ってもいいし、参加を強要されていると感じてしまうことすら、少なくない。ところが、仕方なく参加してみても愉しくはないし、参加を拒絶してみても、同様に愉しくはない。愉しそうなニューヨークの住民との違いは、いったいどこにあるのだろうか。資本主義社会に暮らす人々が共通して抱く、ある水準の生活思想を手馴れた技法で切りとることができれば、感情や行動の水準での参加が成立する。バンクシーが個人なのか集団なのかは知らないが、彼(ら)はそこを押さえている点で、エコロジーアーチストとは根本的に異なっているように思える。