児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

1977年生の監督が撮った韓国戦後史のはじまり:「済州島四・三事件ハラン」

Vol.115 更新:2026年4月6日

▼ノーベル賞作家ハン・ガン(1970年生)の『別れを告げない』には、ストーリの背景に、韓国戦後史の起点ともいうべき済州島4・3事件が埋め込まれている。「1948年に政府が樹立するとき左翼と見なされて教育対象になった人々が加入したその組織〔引用者註・保導連盟〕のことを、私は知っている。家族の誰かが政治的な講演を聞きに行った程度のことさえ加入理由になった。〔略〕1950年6月に戦争が起きると、この名簿をもとに予備検束が実施され、銃殺された。」「その夏に大邸で検挙された保護連盟加入者は大邸刑務所に収容されたの。〔略〕そのとき死んだ左翼囚1500人の中に、済州島の人も140人あまり含まれていたの。」(斎藤真理子訳)

▼済州島の攻撃は、〔1948年〕4月3日の早朝、何の警告もなしに開始された。ゲリラ部隊は、島の24の警察署のうちの、北部沿岸を中心とする半数の警察署を襲撃した。反乱の主力部隊は約500人であった。そのうちの半数が小銃をもっていたが、その外は刀、槍、竹槍、手製の手榴弾、いろいろなタイプの爆弾、つるはし、シャベルなどの武器を携えていた。3000人にのぼる人々が山から降りてきたゲリラ部隊と行動をともにしていた。(ジョン・メリル『済州島4・3蜂起』)

▼4・3事件の渦中に日本へ密航した母を、娘であるヤン・ヨンヒ監督(1964年生)が撮影したドキュメンタリーの秀作が「スープとイデオロギー」だった。そして、そのヤン監督が、今度はプロデューサーとして制作した劇映画が「済州島四・三事件ハラン」(ハ・ミョンミ監督=1977年生)だ。済州島の海女アジン(キム・ヒャンギ)は、夫の安否を確認するため山へ向かう際、心ならずも義母と6歳の娘を村に残す。韓国政府軍により村民が虐殺されたと知らされたアジンは、娘が生きているという巫堂見習いの言葉を頼りに、単独で山を降りる。途中、反政府武装隊から「理想の社会」をつくるため行動を共にするよう言われ、日本軍が遺したダイナマイトを保管してある洞窟へ連れられたものの何とか離れ、娘を見つけだすことができた。しかし、娘は口がきけなくなっていた――。

▼私のような素人の一観客が思っただけだから、あまりあてにはならないが、映画作品そのものは顔のアップが多く、そうでなければことさら手先や足先を写すなど、感心できるカメラワークとは言い難かった。また、ストーリ構成も、6歳の子どもの視点というよりは子どもを介した大人の視点だったし、人物描写や会話からコスチューム(たとえばベレー帽)に至るまで、どこか類型的と言わざるをえない。それでも、ラストシーンによって、教育映画に堕することからは免れていた。そして、何よりも、ハン・ガンと似た世代のプロデューサーと監督(いずれも女性)が、韓国戦後史のはじまりに正面から取り組む姿勢には瞠目する。ちなみに、4・3事件と不可分の麗水・順天事件を背景にした小説『父の革命日記』を著したチョン・ジアも1965年生まれの女性だという。