児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

オムニバスとして構成する必然性:「アット・ザ・ベンチ」

Vol.102 更新:2025年1月18日

▼オムニバス映画は、駄作とはいえない作品でも、それほど高い評価が与えられない場合が多い。一般に1つのエピソードに1つのテーマが組み込まれているスタイルであるため、各エピソードにそれなりの面白さが感じられても、相乗というよりは総和にとどまるからか、どこか物足りなさが残る。しかし、「アット・ザ・ベンチ」(奥山由之監督)には、掛け値なく堪能させられた。その理由について以下に考えてみる。

▼公園に取り残された古いベンチを舞台とするこの作品は、5つのエピソードから構成されている。第1編「残り者たち」でベンチに腰掛けるのは、幼馴染みの男女(仲野太賀と広瀬すず)。売れ残る前に結婚するかなといった気持ちを浮かべながら、「もみじスーパー」という名前なのに「もやしスーパー」と呼ばれている店や、「義理チョコ」の「義理」が「義理の母になってもらおうかな」という回りくどい呟きの「義理」と掛けられる等の会話が交わされる。このカップルは、第5編「さびしいは続く」にも登場し、姿はみせない母の言葉とともに、これはこれでまあ幸せに暮らすことになるだろうなという余韻を残すつくりになっている。

▼両者の間に挟みこまれた第2編「まわらない」でベンチに腰掛けるのは、大きな違和は感じていないと言いながら、小さな違和を数限りなく男(岡山天音)にぶつける女(岸井ゆきの)だ。彼女は、「バイクに乗らないのにバイク乗りの恰好をしている」「テレビに出ている人を誰彼なくアイツと呼ぶ(そのアイツが叶姉妹だったりする)」といった男の欠点をあげつらうにつれて、次第に感情が昂ってくる。第3編「守る役割」では、家出をしてホームレス生活をする姉(今田美桜)と彼女を探し出した妹(森七菜)が、ベンチの傍で激しく言い争うが、現実離れした家出の理由にどこか一部で納得してしまいそうになる妹が描かれる。そして、第4編「ラストシーン」では、ベンチを撤去するためにやってきた建設会社の上司(草g剛)と女性社員(吉岡里穂)がベンチの寸法を測る際に、東西南北や幅・高さ・奥行をめぐって、ずれた遣り取りを繰り広げる――。

▼これらのうち、まず第2〜4編を、横軸にコミカル度をとり縦軸にシリアス度をとって分類してみる。すると、第2編はコミカル>シリアス、第3編はコミカル<シリアス、そして第4編はコミカル=シリアスというようにプロットされるだろう。だが、(コミカル,シリアス)の座標に回収しきれないものがある。それを仮にペーソス度と呼ぶなら、第1編と第5編に漂っているのはペーソス度の座標軸にプロットされる要素であり、それが観客へ橋渡しされ共有される仕組みになっていることがわかる。

▼このような仕組みを支える土台は微細な差異を有する一つ一つの脚本だから、そこにこそ映画をオムニバスとして構成する必然性がある。そして、それらがペーソス度に基づいて橋渡しされたことにより、観客(の一人である私)は映画を堪能することができた。