児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

ボクシング・ドキュメンタリーとして観る:「拳と祈り―袴田巌の生涯―」

Vol.100 更新:2024年11月9日

▼徐々に減少へ向かいつつあったとはいえ、ボクシングのテレビ中継がまだ盛んだった頃の解説者といえば、誰をさしおいても郡司信夫だった。映画「拳と祈り―袴田巌の生涯―」(笠井千晶監督)によると、郡司は「ボクシング・マガジン」誌の編集長だった前田衷と一緒に、東京拘置所で袴田巌と面会した。この時の袴田は、色は白かったが、はっきりと自らの無実を訴えていたという。その後、袴田と郡司の往復書簡が同誌に掲載された。郡司からの手紙には、袴田の明るさが無実を物語っているという確信に加えて、フィリピンへ遠征した際の思い出などが綴られていた。

▼2016年(WBCフライ級王者を八重樫東が防衛し同ライトフライ級王者を井上尚弥が獲得した日―高岡註)に、WBCは袴田に名誉チャンピオンベルトを授与した。(その背景には日本プロボクシング協会や輪島功一ら袴田巌支援委員会の活動があった―高岡註)。袴田以前に名誉チャンピオンベルトを授与されたボクサーに、ハリケーン・カーターがいた。カーターは、奇しくも袴田事件と同じ1966年に無実の罪で逮捕・収監され、23年後に無罪になった。袴田は、この事実を知って、獄中からカーターに手紙を送った。映画には、カーターからの「Free Hakamada!」という熱いメッセージが収録されている。

▼このようなボクシング界の連帯を生み出した袴田の戦歴とは、どのようなものであったか。私などは同時代的には知り得べくもないが、この映画によれば、高校時代に静岡国体団体戦で3位入賞後、上京して不二拳からプロデビューしたという。そして、東洋チャンピオンスカウトのフェザー級で優勝するとともに、日本で最多の年間19試合をこなした。附記するなら、引退後は清水市で「太陽」という店のボーイとして働いた後、バー「暖流」を経営し結婚して一児をもうけたが、離婚して味噌会社へ務めることになった。以上のとおり、この映画を袴田のボクシング・ドキュメンタリーとして観ることも出来る。

▼他方、裁判そのものに関しては、死刑判決を下した一審担当の裁判官のうちの一人だった熊本判事の後悔が知られている。彼は唯一、袴田の無罪を主張したものの、結局は有罪の判決文を書かされた。映画は、熊本の慙愧の言葉に加え、酸素吸入を要する彼の病床での姿も捉えている。九州の病院へ姉秀子とともに彼を見舞い謝罪を受けた袴田は、インタビューに対し「熊本」「一審の判事」と感情を交えず答えている。映画を観た者は、熊本とはあまりにも対照的な検察と当時の裁判所との癒着に、改めて憤りを覚えることになる。

▼最後にトリビア的な感想を記すなら、袴田の拘禁反応による言葉の合間には、期せずしてユーモアが混じる部分がある。その一つに「長時間の歩いての見廻りに代えて運転手を雇うのはどうか、私も運転ができるが」というインタビュアーの問いに、「暴走族だと困るんだね」と返す場面があった。暴走族という言葉は袴田事件の頃には未だ登場していなかったはずで現在は死語と化しているが、袴田はこの言葉を獄中の読書で知ったのだろうか。