児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

村落共同体からの通路:「ジヌよさらば」

Vol.10 更新:2015年4月20日

▼ずっとマンガを読んでいなかった期間があったため、うかつにも2,3年ほど前まで、いがらしみきおという名前を知らなかった。知ったのは、山上たつひこが原作を書いた『羊の木』(作画いがらしみきお:講談社)を読んでからだ。その本の末尾には、山上といがらしの対談が収録されていて、そこで山上がいがらしの『かむろば村へ』を高く評価していることを知った。

▼銀行も病院もない寒村=かむろば村に、タケこと高見武晴がやってくる。元銀行員のタケは、金(かね)アレルギーに罹り、そのため「何も買わない、何も売らない」生活を送るために、村へやってきたのだった。村には、自らバスで老人たちを送迎する村長の与三郎、その妻で都会的な女性=亜希子、都会に憧れる女子高生の青葉、神様と呼ばれる中主(なかぬっ)さん、その孫で大量のザリガニを降らせる能力を持つ進などの人物がいる。

▼このマンガが、監督=松尾スズキ、主演=松田龍平で映画化された以上、面白くないわけがない。しかも、阿部サダヲ、松たか子、二階堂ふみらのほか、三谷幸喜がポスターになって登場するし、松尾監督自身は、いかにも悪そうな面構えで登場する。そして、西田敏行さえもが、一見、枯れた感じで描かれている。なお、脚本は、おおよそ原作に沿って書かれているようだ。

▼ところで、私見では、マンガ『かむろば村へ』でも映画「ジヌよさらば」でも、ほんとうの主人公は、かむろば村という共同体そのものだと思う。村には古墳があり、その中は神室(かむろ)と呼ばれる。第一に、村は「おんごろ湯」という温泉を介して「あの世」へとつながる。その通路の傍にいる人物は、特異な能力を持つ「なかぬっさん」であり進だ。第二に、村には都市(東京)へとつながる通路がある。その通路の傍には与三郎にとっての「幻の女」(「偶然一回すれつがっただげなのぬ一生忘れらんねえ女」)である亜希子がいる。そして、そのことによって、過去と現在がつながる。

▼つまり、かむろば村は、これら2つの通路によって、まるで村自体が生物であるかのように呼吸をしていることになる。言い換えるなら、エコロジーによる死とは対極にあるということだ。もっとも、通路は塞がりかけてはいる。「なかぬっさん」の子であり進の親である奈津は、「なぬも願わねす なぬも望まね女」になり、超能力を封印した。こうして、「あの世」は視えにくくなった。

▼一方、都会に憧れる青葉は、タケにとっての「幻の女」になれるのか。もしなれるのなら、青葉はタケを介して東京へ向かうことになるのか。そうはならない。つまり、こちらの通路も塞がりかけているのだ。だが、それは悲劇ではない。映画はそこまで解釈して脚本をつくっている。それにしても、こういう一流の喜劇映画においてさえ、「この世」と「あの世」、また過去と現在をつなぐ通路という要素が、不可欠に含まれていることは驚きだ。そのことの意味は、もう少し考えられてよい。