憎しみを前提にした美の世界:「彌勒」「シュトルム・ウント・ドランクッ」
Vol.5 更新:2014年12月25日
▼私の記憶違いなら訂正するが、あがた森魚の地方ツアーというか簡易キャラバンを追った映画で、あがたが書棚に並んだ本の中から稲垣足穂の著書を見つけ出すシーンがあったと思う。あがたは、足穂の作品を好んで読んでいたのだろう。社会状況から全く無関係であるかのように、足穂作品を読んでいた学友が、私の周りにもいた。彼は足穂がいかに優れているかを何も語らなかったが、私は足穂の世界を知らないままでは済まされないような気持ちにさせられた。そこで、簡単に入手可能だった『一千一秒物語』(新潮文庫)を読み、こんな世界があるのかと、驚いたことを覚えている。
▼その足穂の「彌勒」が、林海象監督によって映画化された。2014年は未だ終わっていないが、この年の11月までの時点で私が観ることの出来た映画のうち、もっとも面白かった一本を挙げるとすると、この作品になるだろう。モノクロ映像の第一部では、少年・江美留(土村芳・京都造形芸術大学の卒業生だという)が天文学士と出会った後、小説家を目指す。第二部では、小説を書けない青年・江美留(永瀬正敏)が、鬼(井浦新)と出会う。その中で、彌勒・砲弾・天体といった足穂の偏愛した世界が、一コマずつの独立した写真のように、挟み込まれる。
▼時代からも社会状況からも孤立させられ迫害されているはずなのに、ひたすら個人の内面は精神・金属・宇宙という鈍色(にびいろ)とだけ共振している。もっとも、時代や社会に対して無関心というわけではなく、無条件の憎しみが前提になって、ひたすらそれらに背を向けているように読みとれる。
▼同じ年に公開された映画「シュトルム・ウント・ドランクッ」(山田勇男監督)の女テロリスト・エミルは、「彌勒」の江美留からとった名前だという。エミルを演じた中村榮美子が蕎麦屋の岡持を手にして登場するシーンが反復されるが、そこでは岡持すらが、共振する鈍色の金属といった趣きに映る。また、アナキスト・中浜哲を演じた寺十吾の大きな眼が、少年の面影を髣髴とさせる。そこで共振するものは、ダイナマイトと花札だけだ。
▼実際のギロチン社・中浜の実像と、どの程度の重なりがあるのかは知らない。だが、この映画で描かれたテロリスト群像が、時代や社会状況と無関係に、世界への独立した偏愛に基づいていることは、やはり驚きだった。だからこそ、キャラメルの巨大広告が障子の向こうを過ぎるシーンや、ワルシャワ労働歌をバックに踊るシーンには、現実の大正時代とは無関係に描かれる必然性と根拠があった。
▼文芸も革命運動も、こういう驚きを排除して成立するものではない。時代や社会に対し憎しみゆえに背を向けつつ、人間の内面と共振した美の世界を描ききる媒体は、いまとなっては「彌勒」や「シュトルム・ウント・ドランクッ」に代表される映画表現だけかもしれない。疾風怒濤(Strum und Drang)は、人間の内面にのみ出自を持っている。