児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

普遍的青春:「So Young」

Vol.4  更新:2014年11月27日

▼学園青春映画というジャンルがあるとすれば、それが成立する条件は、たった一つだと思う。映画に登場する青春群像の中の一人以上が、観客自身または観客の周囲にいた人物にとっての、過去における微細な日常体験と、重なるようにつくられているという条件だ。だから、学園青春映画の観客は必然的に、青春と呼ばれる年齢を通過し終わっていることになる。

▼このことは、単なる若き日への郷愁を意味しない。ささやかでも華やかさを伴う記憶は全て点景へと退き、後悔が一瞬だけよみがえる。その一瞬の後悔が、特定の風景と結びついて、静かに尾をひく。だが、一人ひとりの観客は、風景と結びついた記憶を、誰にも語ることはない。例外的に語る場合でも、個人の体験についての記憶そのものではなく、体験と間接的に結びついた風景について語るだけだ。

▼そういう風景を綴り合せていったときに出来上がる作品が学園青春映画であり、そこで描かれる青春は普遍的青春ということになる。なぜなら、一つの風景が、観客の数と同じだけの、隠された体験との結合を産みだしているがゆえに、風景は観客の体験の総和となるからだ。

▼「So Young」(ヴィッキー・チャオ監督)は、1990年代中国の大学生群像を描いた作品だ。理工系大学の学生寮に暮らすことになった女子学生たちには、少しの喜びと、それを上回る悲しみの体験が訪れる。男子学生との別れは、しばしば相手の米国留学という形をとる。あるいは、恋人と同級生との妊娠騒ぎがエピソードとして挟み込まれる。同時に、少数民族出身であるがゆえの上昇志向との葛藤に悩む場面もある。

▼こういった体験に結びついて描かれる、風景とはどういうものか。たとえば汚い学生寮の壁に貼りめぐらされたビラは、やはり薄汚れているものの、中国らしく極彩色といってよい景観だ。ついでにいえば、学生たちの服装は、1970年代や2000年代の日本に置き換えても、それほど違和感がない。また、あえて国境を無視した風景も持ち込まれる。たとえば、映画タイトルの由来であるSuedeの音楽以外に、日本の流行歌「それが大事」の広東語カバー「紅日」が唄われるシーンがある。加えて、「オバサン」という日本語も語られる。

▼結局、学生たちは、それぞれの体験の写像のような風景だけを抱えて中退または卒業し、その後の人生を歩んでいく。映画と同様に青春期を過ぎ去った観客は、映像を触媒にして「こういうことがあったよな」という気持ちにさせられる。そして、捨て去った微小で卑小な体験が、いかにかけがえのないものであったかを、改めて思い出すことになる。

▼チャオ監督は、女優としての経験は多いものの、監督としてはこの映画が第一作で、しかも北京電影学院での卒業制作だという。ひょっとしたら、一生に一度だけつくることができる作品かもしれない。ただ、ラスト・シーンは、二流のハリウッド映画のようで、いただけなかった。