児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

生活の切断:「ディスコネクト」

Vol.2 更新:2014年7月31日

▼大人も子どもも、生活を営んでいることに違いはない。また、大人も子どもも、インターネットを介することで、生活空間の物理的範囲を拡大していることに違いはない。同じことを別の角度から言いなおすなら、かつては大人のほうがやや広かった生活空間の範囲は、インターネットを介することで子どもの生活空間と差がなくなったか、または範囲の逆転さえもが生じたが、それでも生活を営んでいること自体に変わりはない。

▼だから、現代的にみえるインターネット犯罪もLINE殺人も、装いの新しさはあっても、本質は古典的なままというしかない。そして、犯罪の本質はいつも、現実の生活空間の切断からはじまる。「ディスコネクト」(ヘンリー=アレックス・ルビン監督)もそうだった。

▼この映画には、弁護士リッチとその息子ベン、元刑事で現探偵のディクソンとその息子ジェイソン、そして赤ん坊を亡くしたあとチャットルームで男と交流するシンディとその夫デレック、ポルノサイトで働く少年カイルと彼をテレビ放映する女性レポーターのニーナという4組が登場する。そして、それぞれが実生活空間のなかで親子関係を含む人間関係が切断されていて、そのぶんだけそれぞれがネット空間での人間関係を志向している。

▼たとえば以前の綿矢りさの小説(『蹴りたい背中』)に描かれていたような初期ネット空間では、男子中学生が女性を装ってチャットを繰り返していたことがばれても、せいぜい心あたたまるエピソードの水準にとどまることができた。だが、映画「ディスコネクト」におけるベンは、ジェイソンが装った女性からのリクエストメールに応じて自らのヌード写真を送り、それが公開されたことから自殺を企図して重い意識障害に陥り入院する。

▼しかし、別に映画はネット空間の危険性をいいたてようとしているわけではない。それどころか、ネット以前の学校空間や家庭空間のほうにこそ、カメラは向けられている。つまり、徹頭徹尾オーソドックスな作品だ。そして、このオーソドックスさが、観客を納得させることになる。

▼ところで、カイルを取材するニーナは、自らが製作した映像がFBIの捜査に使われたことで、カイルを苦境に追いやってしまう。このあたりは、報道の自由が即報道の統制へとつながるアメリカ社会への、ささやかな批判になっている。

▼いずれにせよ、そこで彼女はカイルを助けようとするが、「結婚してくれるのか」という究極の問いをカイルから浴びせられることにより、口ごもってしまう。それでも、ニーナのような女性がいたなら、一瞬にせよ少年たちは救われた気になるという描写になっている。

▼もう一つある。意識不明のまま入院を続けるベンに、最後に寄り添うのは姉のアビーだった。彼女は、弟に友達なんかいないということを、よく知っていた。その姉が、意識不明の弟の隣に横たわろうとする。ここでも観客は、こういう姉がいたならなあという気に、一瞬ではあってもさせられるに違いない。